ホーム > さきもの取引の始まり
人類の経済活動は、概ね (1)自給自足(狩猟・採集・農耕経済) ↓ 余剰生産物の発生 (2)交換経済(モノとモノの交換) ↓ (3)貨幣経済(モノとカネの同時交換、現物取引) と段階的に発展してきました。 しかしこれで終りではなく、人々は生産中、輸送中のモノも売買しようと考えました。 そこで発生したのが (4)先渡取引(未着物取引)という取引形態です。
1531年 アントワープに商品取引所が設立されました。 当時、アントワープは地中海貿易の中継地となっていて、現物取引が集中的に行われていましたが、そこに集う商人たちの中で、売り手は輸送中の物資(未着物)について早く現金化したい、買い手は必要な物資を早めに確保したいと考える者がでてきました。
1571年 ロンドンにも王立商品取引所が設立されました。
そのような商人たちの間では、自然発生的に未着物取引(=先渡取引)が行われるようになりました。そこでは商人達が、各種商品を標準化・規格化することで、未着のコショウ、未収穫の穀物等の売買を見本品を基に行いました。 その結果、アントワープ商品取引所での取引量は爆発的に増大しました。アントワープの取引所の発展を目の当たりにして、ジョン・グレシャムがロンドンに設立した取引所が王立取引所として公認されました。
江戸時代、コメはモノの側面を持つ反面、通貨としての機能も持っていましたので米価の安定は国民経済上重要なことでした。吉宗以前の時代にもコメの先渡取引がコメ商人である淀屋の庭先で行われていましたが、米価を高騰させるという理由でその後禁止・又は制限されていました。
1948年 シカゴ商品取引所が設立されました。
しかし、吉宗の代にコメの増産に成功し、米価が低落し、生産者である農民やコメで俸禄を得ていた武士階級が困窮に追い込まれると幕府はコメの先物取引を公許しました。ここではそれまでの先渡取引(現物の受渡しをともなう取引)は行わず差金決済のみを行う取引形態が展開されました。 シカゴは米国の穀倉地帯の中心で小麦、トウモロコシの集積地となっていましたが、この地で売り手・買い手双方の「年間を通じて安定した価格で生産物を売却したい」「安定的に物資を仕入れたい」という意向を実現するための仕組みが考え出されて、取引所の設立につながりました。その際には日本の帳合米取引を参考にしたと言われる制度の構築が行われ、買いからでも売りからでも取引に参加して自由に差金決済ができる現在の先物取引制度が確立しました。
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